無断転載〜犠牲の奥参事官、外務省HPに「イラク便り」70回

無断転載

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犠牲の奥参事官、外務省HPに「イラク便り」70回


 奥克彦参事官は、4月にイラク入りしてからの活動状況を「イラク便り」として、外務省のホームページにつづった。復興支援への情熱を語り、頻発する爆弾事件にも「テロとの闘いに屈しない」と記していた。

 「私の両親の世代は、第2次世界大戦直後にユニセフの支援で粉ミルクなどの供与を受けた。今後は日本が支援をする番だ」。イラク入りして2週間後の5月6日。井ノ上正盛書記官とともにバグダッドマンスール地区の学校を訪問した。

 同14日。「学校へやって来て、日本の支援に触れてくれれば、いつか大人になってもその記憶が心によみがえる」「子供たちのきらきらした目を見ていると、この国の将来はきっとうまく行くと思えてきます」

 イラクにオリンピック委員会が再結成された。「聖火がイラクパレスチナイスラエルを通って、民族の違いを乗り越えて手渡されるようなルートが実現する日がくれば、平和の祭典にふさわしい」(同30日)

 住民のいら立ちが募る様も報告した。真夏の8月11日、南部のバスラで一部市民が暴徒化した。「かえって生活基盤は悪くなっている。自由は手に入れたものの、住民の忍耐は限界にきているようだ。一刻も早い支援の実施が唯一の解決策でしょう」

 バグダッドの国連現地本部が8月19日、爆弾テロを受けた。同24日に被害を受けた建物を訪れた。犠牲となった旧知のユニセフ職員の名刺を偶然、見つけた。「拾い上げてみると、『我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!』と語りかけてくるようです」

 テロリストへの批判。「自らの主張を満足させるために、他人の犠牲をいとわないという卑劣きわまる考え方に基づく行動だ」「暴力に訴える者は理由が何であれ、結局、支持を得ることができない」(同27日)

 市民の生活ぶりも報告した。北部のモスルで現地のファストフードの「ファラーフェル」を「日本の肉屋さんの店先で売られている揚げたてのコロッケのよう」(10月10日)とスケッチした。

 11月13日、南部ナーシリヤでイタリア部隊が爆弾テロに襲われた。「これはテロとの闘いです」「犠牲になった尊い命からくみ取るべきは、テロとの闘いに屈しないという強い決意ではないか。テロリストの放逐は我々全員の課題なのです」

 イラク便りは計70回。11月21日、南部に展開するイタリア軍のササーリ旅団を紹介したのが、最後になった。

(11/30 19:39)

http://www.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200311300151.html

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外務省ホームページ 「イラク便り」

奥大使遺稿「イラク便り」に寄せての川口大臣メッセージ

 私たちの同僚である奥克彦大使、井ノ上正盛一等書記官とジョルジース・スレイマーン・ズラ運転手の三人は、11月29日、イラクティクリート南方で、何者かの襲撃により亡くなられました。

 厳しい環境の中で、日夜粉骨砕身、イラク復興のため懸命の努力を続けていた仲間を失った怒りと悲しみに胸が張り裂ける思いです。ご遺族の皆様のご心痛とご無念をお察し申し上げ、謹んでお悔やみ申し上げます。三人のご冥福をお祈り申し上げますとともに、そのご功績に心からの敬意と感謝を捧げます。

 私たちにとって、今回の事件は痛恨の極みとしか言いようがありません。しかし、これによって、「テロに屈せずイラクの復興支援に積極的に取り組む」との我が国の基本方針が揺らぐことはありません。今、私たちがなすべきことは、亡くなられた方々の御遺志をしっかりと胸に刻み、受け継いでいくことです。それこそが最大の供養であり、私たちの責務です。

 奥大使は、本年4月より亡くなられる2日前までイラク復興の現場での思いを是非日本の皆様に知っていただきたいと、激務の合間をぬって、「イラク便り」を71回にわたり書きつづり、本ホームページにて皆様に読んでいただいてまいりました。

 「イラク便り」には、奥大使の熱い思いが溢れています。一人でも多くの方にお読みいただくことにより、奥大使の気持が皆様に届くことを願ってやみません。また、数多くの日本人が世界のさまざまな場所で厳しい環境に耐えながら使命感に燃えて、日本のために日夜奮闘していることにも思いをいたしていただければ幸いです。

2003年12月1日
外務大臣 川口 順子

(本文中では当時の官職名を使用しております。)

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/iraq/

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